私は時々、色について考えることがある。
ふと聴いた曲であったり、知り合いと遊んだシナリオの展開であったりと、
それらを色の何かで感じて、色から連想する感情に浸る。
忙しい時には何も感じないけれども、心に余裕があって何らかの観念に囚われていないときにそう感じることが多い。
(最近の生活はモノクロやグレーといった淡白な印象しかない)
幼少期のころ、ピアノでシ♭やミ♭の音を聞くと、夕暮れの哀愁を感じるようなイメージを抱いたようで、
今でもこの2音は少し暗めのオレンジ色に感じて悲しくなるときがある。
またファ#やソは明るいイメージだから明るく薄い黄色で楽しく感じるし、レは無理していそうなイメージなので濃くて暗めのオリーブ色(?)で少し気分が落ち込む。
こう書いてみると、幼少期はイメージ→感情→色→感情という順番で感情が動いている様子がうかがえるが、
大学生や大人になった今では、感情→色→感情と「イメージ」の部分が抜け落ちているようだ。
色と感情はある意味相互的な関係がある(と思っている)が、イメージについては一方的な関係でしかない。
つまり、イメージする機会が減って、もしくはなくなっていることを示唆している。
なぜ幼少期は「イメージ」ができたのだろう。
考えてみた結果、幼少期は今ほど「曲に込められたメッセージ」を表面的にしか感じ取れなかったからではないか、という結論に至った。
曲に込められたメッセージというのは、歌詞やメロディーといった表面的なものから、その曲に携わった人間(作曲家作詞家、歌手など)の歩んできた人生、つまり目に見えないところまで含めたものを指していることが多い。
幼少期は大人ほど言葉を知らないし、その曲に携わった人間のファンでない限り、「曲を歌っている人がいる」という認識しかできないだろう。
それでも歌詞やメロディーといったものは大人子ども関係なく感じるはずで、その曲がどんな曲かを考える判断材料が「音が楽しいか、悲しいか、痛いか」や、別の見方では「歌手がどんな表情で歌っているか」といったものしかないのであれば、それによってその曲の「イメージ」が固まるのではないか。
私の場合、固まった「イメージ」によって感情は動かされ、感情は色で表すことができ、色は感情に紐づくようになっていったように思う。
また、単に幼少期に、自分の中で凝り固まったイメージの曲を多く聞きすぎてしまったのも「イメージ」を助長してしまったのかもしれない。
大人になってからはある程度言葉を理解できるので、その曲がどんな人間が作ったのか、歌手がどんな思いで歌うのかなど、バックグラウンドを含めて曲の楽しみ方が幅広く増えたような気がする。
そう考えると、そのバックグラウンドを聞いてしまうがゆえに、イメージができなくなってしまうのではないか。
自分でも書いていてわけが分からなくなってきた。
とりあえず、だらだらと書いた中で言いたかったことは、
最近イメージすることが機会が減ってきているけど、それはちょっとやばいんじゃない、という話である。
そういえば、「ワクワクを…」みたいなセリフを聞いたような気がするが、
これは未知との遭遇に対して怖がるな、イメージしろ的な意味なのだろうか。分からん。
今日はここまで。 終わり。