「オタク(ヲタク)」という言葉の意味が、時代とともに拡大解釈、ひいては自分たちの都合の良いように変化してきているような気がしてならない。

私が小学生ぐらいに見たテレビの特集では、オタクについて取り上げていた。
そこでは確か、秋葉原のようなサブカルチャーの集まる場所で取材していたように思う。
取材されていたのはたいてい「服装や見た目が特徴的な男性」で、「異性のキャラクターを熱狂的に応援している」(推している)といった内容だった。

たった1つの番組、数分程度の特集であったが、それをきっかけに自分の思考の一部が変わってしまった。

見た目が特徴的な相手の容姿をいじることで面白さが増す、ということはないと思うのだが、自分の見た番組ではよくそう言った手法で盛り上げる動きが多かった。
芸人さんが出演している番組ほどそういったことがあったように思う。

また、オタクであることで面白おかしくテレビや動画などで取り上げられ、
オタクを芸能人が嫌悪するといった企画もあった。(自分たちもそうであったかもしれないのに。)

子どもながらに見ていて、
「オタク」≒「嫌がられる存在」、
「特徴的な見た目である人」≒「気持ち悪い」⇒「嫌がられる存在」⇒「好きを公言したら蔑まれる」
という謎の方程式が自分の中でできてしまった。

オタクであることが気持ち悪いとみなされることなのだと、感じるようになった。

大人になった今も、「自分が何かのオタクである」と発言することで蔑まれるのかと思うと、
その方程式が頭にこびりついて離れない。

ここからは、コミュニティが狭すぎた私の偏見となる。

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アーティストや俳優の「ファン」であったり、その年代の人たちに幅広く見られているアニメが「好き」であることを公言している人はもちろんいた。
しかし時代が進むにつれ、アニメ好き、アイドル好きなど自分の嗜好を公言するような芸能人が増え、「オタク」という言葉が受け入れられていくような風潮になっていったように思う。
またSNSの普及により、よりライトに「好き」を公言できるようなコミュニティの形成もできるようになって、
「推し」という言葉も、様々な性癖の言葉も、人によって受け入れられたり共有できたりという様子が活発となってきていると思う。

もちろんこれは悪いことではないのだが、あの方程式が未だに離れない私からしたら、
今まで嫌悪してきたものをあっさり認めて、なんてあっけないんだろう、と思っている。

「オタク」であることをよりライトに、普遍的に発言できるようにすることによって、
自分たちの都合の良いように、自分たちの正当性を主張するかの如く、
言葉の意味を数年のうちに変化させてきたのではないか、と思えてきてならない。

その違和感が今でも拭えない。

だから私は自分をオタクであることを認めていないし、自分の「好き」を話すことができない。

「好き」を公言しているにしても、マスコットキャラクターのような、人外のキャラクターの「ファン」であることでしか自分を表せないというのは、寂しいものである。

終わり。